2019.07.15
先月6月1日(土)に第11回あきた母乳育児をささえる会学習会にお招きいただき「知ってほしい、赤ちゃんのこと ~少子化対策に欠けていた視点とその処方箋」と題して、なぜ日本の少子化対策がことごとく失敗してしまったのかについて小児科医からの目線でお話しさせていただきました。その時の内容の少しまとめてみたいと思います。
本題に入る前に人口に関する基礎的事項と少子化に至る社会的背景に関してまとめてみました。
以上を踏まえた上で「どうして合計特殊出生率は上がらない?」と言う本題に関して考えてみます。
小児・新生児医療に関わっていると仕事柄どうしても、子育て中にいろんな理由で「困っている」お母さんやご家族からのお話を聞くことになります。少なくともお母さんの仕事との両立と言う観点から言えば、お子さんの病気や入院など突発的なことが起こった時のセーフティーネットは極めて脆弱と感じます。こうした突発的な状況を「有事」とすれば、いわゆる「少子化対策」と言われるもののほとんどは「平時」の対策に偏っているように感じます。まして、「保育園に入れない」などと言う事態は、この綱渡りすら叶わずに手前の崖の前で立ちすくんでいるような状況でしょう。
結論から言ってしまえば、どうして合計特殊出生率は上がらないのか?と問われれば、その答えを一言で言えば「子育て中に困っていても助けてくれないから」なのではないかと思います。つまり、日本の合計特殊出生率がいつまで経っても上がってこないのは、子どもを持たないことが人生を生きていく上でのリスクマネジメントになってしまった結果なのではないでしょうか?
ここまでをまとめると、こどもが増えない原因はこの不安定さにあるのではないか?そして、この不安定さに応えることこそが最大の対策になるのはないかと思います。
ただ、問題はそれほど簡単ではないようにも思います。
もっと根深い問題として、そもそもお母さん、と言うよりも女性が働く上での社会環境があるように思います。それは「ケア」に関わる問題です。「ケア」とは、子育てに限らず、家事全般や介護その他、人が生まれてから死んでいくまで、すなわち生老病死に伴って生じる「人の手による世話」全般を指します。かつての高度経済成長時代では、夫が仕事、妻が「ケア」をそれぞれ性別分業することで多くの家庭が成り立っていました。当時の主たる稼ぎ頭であった夫の給与には専業主婦が従事する「ケア」の中におそらくは込み込みになっていたのだと思いますが、「女性の社会進出」ならぬ「女性が働かざるを得ない」社会となってしまった今、この「ケア代」が宙ぶらりんになってしまい、それがどこにも計上されなくなったと言う構図があるようです。この「ケア」という概念は、アン=マリー・スローター氏による「仕事と家庭は両立できない?:「女性が輝く社会」のウソとホント」で紹介されています。
昔から、「銃後の守り」と言うことばがあります。これこそが「ケア」そのものなのではないかと思います。そもそも、誰かひとりが時間的・空間的に無限定的に働いていれば、その人は家族のケアに関わることができないので、他の誰かが担うことになります。しかし、生老病死、人生を生きていく上で、育児・介護・病気等々、人生におけるケアの総和はそもそもスタート時点では男女とも同じはずであり、この「ケア」にかかるコストを何らかの形で計上して行く必要があるのでしょう。
現在でもこの「ケア」の主たる担い手が女性であることが社会としての暗黙の了解となっています。今年の春に東京大学名誉教授の上野千鶴子さんが東京大学の入学式の祝辞で、現在も残る男女差別に言及して大きな反響を呼びました。
現実に子育てに限らず「ケア」全般を任されながら仕事をする女性からみると、男性は普通にトラックを走っているのに、自分たちは障害物競走をしているようなものです。これではやる気がなくなってしまって当然でしょう。
上野さんが指摘されたとおり、日本には男女間において統計学的差別が厳然と存在しており、このため「ケア」を担いながら働く女性自身もまたこうした現状下で諦めの気持ちになっていくことを「予言の自己成就」とも呼ばれています。こうした社会病理とも言える背景は、中野円佳氏による「育休世代」のジレンマ~女性活用はなぜ失敗するのか?に詳細に記されています。
こうした構造の背景には「ケア」を他者に任せた働き手のみが評価されると言う構造があります。しかし、一方で近年は共働き世帯が主となっていることを考え合わせると、例えば夫が「ケア」に全く関与せず無限定的に働いているとすれば、「ケア」の負担は妻の方に大きくかかっていくことになります。これは、妻の勤務先の立場からみると、時短勤務にしなければならなかったり頻繁に休んだりと、勤務先としても負担がかかっていることになります。
ここで例えば、専ら男社会で、女性社員がいても子育て中ではとても勤務継続ができないような職場と、子育て中の女性比率の高い職場があったとします。この二つの職場を比べると、前者は子育てに関しての負担がその組織としてはほとんど負っていない一方、後者の職場は組織としては子育てに関する負担が大きくかかっていることになります。そうすると、社会全体として俯瞰すると、子育てに関する負担をほとんど負わない組織は、子育てに関して理解のある組織に対して「ただ乗り(フリーライド)」していると言うことにならないでしょうか?そうした視点も今後必要となってくるのではないかと思います。
一方、先進諸国の中でフランスは合計特殊出生率を改善させた国として有名です。「フランスはどう少子化を克服したか」の「はじめに」のところにこのような記載があります。
日本の場合、この前段のところで思考停止しているように思えてなりません。
かつての高度経済成長期の幻影から抜けきれず、専業主婦時代の価値観を根本的に見直すことなく小手先の少子化対策を続けている限り合計特殊出生率が上昇する時代を迎えることはないのだと思います。
ただ、ここで絶対に忘れてならないのは「こどもの権利」です。お母さんが仕事をすることと、こどもが病気をしたときにどうするか?と言うことは、時として母が働く権利とこどもの権利がぶつかる場合があり得ます。しかし、ここでこの両者の権利がぶつかること自体に社会の矛盾が潜んでいると考えることはできないでしょうか?「子どもは社会で育てる」と言う言葉が語られますが、その言葉の真の意味とは、子育てに関する仕事上の不利益を親に対して負わせないことなのではないかと考えています。
以上、かなり長くなりましたが、秋田の学習会当日は2時間超にもなっており、これでもかなり抜粋してみました。かなり私見ばかりのところもありますので、ご批判は多々あるかと思いますが、小児・新生児医療に関わる者としては、最後の最後のところではこれから社会が変わっていくときに子ども達の権利が守られているかを最終的には注視していかなければならないと思います。
今年春の東京大学入学式の上野さんの祝辞に始まり、平成が終わり令和の時代の訪れとともに子育てや女性差別問題に関して様々なニュースが飛び込んできています。きっと、あと10年もしないうちに「令和元年が日本の転機だったね」と言われる節目の時代に私たちはいるのではないかと思います。
(文責 成育科 網塚 貴介)