2000年4月から現在まで17年8ヶ月の長きに渡ってNICUで勤務された看護師の小笠原さんがついに勤務交代することとなり送別会が開かれました。2000年と言えば、当院NICUが開設されたのは2001年4月でしたが、そのちょうど1年前で、私が青森に来たのと同じ時期です。送別会には同僚や後輩達が集まってくれました。

同期の仲良し3人組と





当院のNICUはこれまでに最初の開設時、総合周産期母子医療センターになった時、さらに震災中にも大規模な増床工事と、計3回の大工事を行ってきました。その全ての過程を知るのは小笠原さんしかいませんし、それまでの間に数多くの看護師さんに看護技術を伝えてくれました。「重力を感じさせない体位交換」という言葉が相応しい技術を持ち、これまでのNICUを支えてくれた大黒柱のひとりです。今回の部署異動は非常に残念ですが、これからの彼女のステップアップにつながる異動になってくれることを心から願っています。小笠原さん、ありがとうございました。
(文責 成育科 網塚 貴介)

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以前から神奈川県の 湘南鎌倉総合病院 産婦人科の先生が新生児科の研修として、これまでにも何人もの先生が研修に来て下さっていて、このブログでもご紹介してきました。
2016.07.31 相原先生のさよなら講演
2014.06.30 湘南鎌倉総合病院 渡邉先生さよなら講演
今年も青柳遼先生が3ヶ月間の研修で来て下さっています。
また札幌市にある 札幌東徳州会病院 とは当院NICUが初期研修医の研修施設の中に入っていることから時々初期研修医の先生がいらっしゃいます。今年は2年目の住吉翔元先生が1ヶ月の研修で来て下さっています。 札幌東徳州会病院は研修医のブログ があって、そこで 住吉先生が研修日記 を書かれていました。

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外から研修の先生がやってくると回診の人数も随分多く感じます。

住吉先生は今月一杯、青柳先生は10月までの予定です。
当院での研修が少しでもお役に立てばと思います。

(文責 成育科 網塚 貴介)

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このところブログのアップが滞っていました。少しさかのぼってみます。
先月末に 埼玉県立小児医療センター を見学させていただきました。この病院は以前は岩槻市にありましたが、昨年末にさいたま新都心に移転してきました。今回はその新病院のNICUを清水正樹先生にご案内していただきました。新病院はさいたま新都心駅と反対側の北与野駅とも直結しており、そのまま歩いて行くことができます。

NICUは備え付けのパーティションで仕切られ半個室化されており、GCUも収納式でスライドするパーティションで仕切られる構造になっていました。いずれも最近のファミリーセンタードケアを意識した設計となっています。GCUのパーティションは一見すると低そうに見えますが、これは当院で採用している移動式のウォールカーテンとほぼ同じ高さで、意外にこの高さでも余程背の高い男性が覗き込まない限りプライバシーが保たれる絶妙な高さに設計されています。


こちらもNICUですが、3床が1セットの「島」になっていて、この「島」の中心から互いが背を向けた形になっているので、これもまたプライバシーを保ちやすい設計と感じました。少し離れて見ると「島」の中心の柱が互い違いになっているのが分かります。これはとても通常では思いもつかない設計ですが、海外のあるNICUを参考にされたとお話しされていました。また人工呼吸器にはクローズドループ制御でFiO2を自動でコントロールすることのできる人工呼吸器 AVEA が標準装備されていました。


こちらはNICUで手術をするための部屋で、この他にも電動で昇降する搬送用保育器や、器材庫には我々では想像もつかないくらいの数多くの機器が常備されていました。特に小児外科疾患や重症新生児仮死に対する低体温療法の件数が非常に多い人口密集地の大規模NICUならではの装備と感じました。




こちらは隣接するさいたま赤十字病院との連絡通路です。


これまで埼玉県立小児医療センターはかつての小児病院から、今回の移転によってさいたま赤十字病院と隣り合わせになることで母体救急にも対応可能な万能型の総合周産期母子医療センターへと変貌を遂げました。一口に総合周産期母子医療センターとは言っても、当院のように小児外科のない施設もあれば、外科疾患への対応は完璧だけど、産科医が少人数しかいなくて内科その他の診療科がないので、母体合併症への対応が困難な小児病院型の施設もあります。かつて、昭和の時代に全国各地に小児病院が次々と建設されました。しかし、当時はまだ周産期医療という概念が希薄な時代でもあり、小児病院の多くは街の中心地から遠く離れた郊外に小児病院単独として建設されました。その後、総合周産期母子医療センターが整備されるにともなって産科が併設されても母体合併症への対応が困難な施設は今なお数多く存在します。そろそろ建て替えの検討段階に入っている施設もあるかと思いますが、その点ではこの埼玉県立小児医療センターのあり方は一つの答えとなる施設なのではないかと感じました。
見学後に清水先生とのツーショットです。見学が終わったら日も暮れて外はすっかり夜になっていました。清水先生、ご案内ありがとうございました。


(文責 成育科 網塚 貴介)

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新飯田先生の慰労会では昔の写真が沢山スライドで流れていました。それらを観ていると本当に懐かしく当時のことが思い起こされます。ここで、あらためて、かつて小樽市銭函にあった北海道立小児総合保健センターの当時の写真をここにアップしておきたいと思います。
これが病院外観です。病院は銭函駅近くの崖の上に建つ4階建てで、病院からは日本海(石狩湾)を一望できました。

これは職員のための公舎で、その向こうには銭函の海水浴場が見えます。夏場はこうして穏やかな海が広がっていますが、冬になると風がかなり強かった覚えがあります。昔住んでいたこの公舎の4階の部屋の一室は窓が閉まりきらなく、吹雪になると部屋の中に雪が吹き込んでいた覚えがあります。

これは地下1階につながる職員駐車場で、右に見えるのは確か看護師さんの寮だった気がします。

こちらは山側の眺めです。病院のすぐ近くにはヘリポートが整備され、ここに釧路や函館から重症な赤ちゃん達が運び込まれていました。若い頃は昼休みにこの辺をランニングしていた記憶があります。それから、そう言えばヘリポートの向こうの山はスキー場でした。この病院からはスキー場もゴルフ場も海水浴場も車で5~10分と言うなんとも素敵な立地でした(もっともそのいずれにも行けた覚えはありませんが・・・)。

こちらは外来です。きっと奥の方が薬局で、お薬の窓口のような気がします。


こちらはNICU入り口の着替えと手洗いの場所だったところです。当時はまだガウンと防止を着用していました。

この部屋はNICUの手前にあった授乳室だと思います。重症な患者さんがいると、奧のソファで仮眠していた覚えがあります。

これがNICUです。産婦人科のない小児病院だったので、超低出生体重児よりも重症仮死、先天性疾患、外科系疾患の赤ちゃんが多い病院でした。保育器よりもインファントウォーマーが多いのもそのためです。


こちらはGCUです。当時はこの部屋に16名の赤ちゃんが入院しており、そこを夜勤看護師さんが一人で看護していました。今では考えられない体制です。

人工呼吸器は昔懐かしいセクリストです。それでも、意外にインファントウォーマーやシリンジポンプはそれ程古くないですね。

これは若かりし頃の写真です。

こちらはクリスマス会の写真ですね。新飯田先生がサンタさんで、こちらはトナカイの担当でした。


当時はデジカメも普及していなかったので、こうした日常を写真に残す習慣がなかったのでしょうね。本当に当時の写真は少なく、今回、幹事の浅沼先生からちょうだいしました。今はすでに取り壊された病院ですが、きっと当時勤務していた方も、お子さんが入院されていたご家族の方達もきっと懐かしい風景なのではないかと思います。ご縁のある方がいらっしゃいましたら是非ご覧いただければ幸いです。
(文責 成育科 網塚 貴介)

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この週末は 北海道立子ども総合医療・療育センター(施設愛称:コドモックル) で永年NICUを支えられ、この春にご退職された新飯田裕一先生の慰労会で札幌に行ってきました。
この日の札幌は雨予報でしたが幸い好天に恵まれました。

新飯田先生には新卒の頃、当時まだ小樽市銭函にあった北海道立小児総合保健センターのNICUで勤務した時にお世話になった恩師で、その後に新生児医療を目指すきっかけも作って下さいました。

会では新飯田先生がこれまでのことをいろいろご紹介されました。当時の北海道立小児総合保健センターはコドモックルに移転した後、建物は既に壊されてしまっています。当時はあまり写真も撮っていないためとても懐かしく当時を思い出していました。

青森に来たのが2000年ですが、その直前までまだ当直体制ではありませんでした。これからNICU体制になると言うことで、どこに当直室を置こうか場所をあちこち新飯田先生と一緒に探し回った覚えがあります。

北海道立小児総合保健センターへは新卒の半年間と、その後、青森に来る前の5年半を勤務しました。写真は当時一緒に働いていた藤川先生と、当時の大滝師長さんとお話ししているのが浅沼先生です。

記念の花束は、今は神奈川こども医療センターでお手伝いされている野口先生から渡されました。

集合写真です。こうした機会でもなければなかなかお目にかかることの難しい先生ばかりでとても懐かしかったです。

こちらは二次会の様子です。

新飯田先生とはしばらくぶりにいろんな昔話をしていました。昔はまだ新生児の医療体制もしっかりしていませんでした。医療体制以前に、人工肺サーファクタントがようやく臨床現場でも使えるようになり、早産の赤ちゃん達がどうにか救命できるようになったと言う時代です。今では本当に想像もできないほどの大変さがありました。そんな話に華が咲きました。

気がつけばかつての青森組が勢揃いしていました。

こちらは札幌医大新生児グループの若手の先生方です。だいぶ若手も育ってきたようですね。

会を後にして再び札幌駅前です。本当に懐かしいひとときでした。
新飯田先生、これまで本当にお疲れ様でした。

(文責 成育科 網塚 貴介)

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